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芸術文化
第18代徳川恒孝宗家の講演会--著書「江戸の遺伝子」をテーマに
芸術文化 / 平成19年12月21日


―――江戸文化の粋を語られる―――
平成19年12月21日(金)、午後6時より、霞ヶ関ビル33階の東海大学校友会において第18代徳川恒孝宗家(財団法人†川記念財団理事長)をお招きし、「江戸の遺伝子」と題してお話をお伺いしました。徳川宗家は江戸における人々の営みを弁舌さわやかにお話をされ、満員の会場は参加者の熱気にあふれていました。
(概略)
江戸時代は世界に例をみない平和な時代を経験しました。世界の国々と比べて150年から200年ぐらい早く日本が平和な時代に突入しました。
ここに2人の外国人の宣教師が書いた文章があります。1つは宣教師のロドリゲスが書いた戦国末の状況が書かれています。「土地は耕作されることもなく、また耕作されたところは種を蒔いたままで荒らされ、敵方や隣人によって強奪され、絶えず互いに殺しあった。日本全体は極度の貧窮と悲惨に陥った、商取引についても法も統治もなく各自が勝手に殺したり罰したり国外に追放したり財産を没収したりした」。これはロドリゲスが書いた1500年代後半1550年60年の日本の状況でございます。
それから約100年経ちまして、ドイツ人医師ケンペルが書かれた、江戸時代に入って80年目の日本が書かれています。「この国の民は、習俗、道徳、美芸、立ち居振る舞いの点で世界のどの国にも立ち勝り、国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ頑健強壮な肉体と剛胆な気性を持ち、生活必需品は有り余るほどに豊富で有り、国内には絶えることの無い平和が続き、かくて世界でも稀に見る程の幸福な国民である」とその時代の日本を紹介しております。

寺子屋
江戸の中期以降になりますが、大都市では、男性は80%以上90%ぐらい、女性は6,70%は寺子屋に行きました。だいたい6歳ぐらいから。なにが今と違うかといいますと、塾に入るということはおっしょさんと一対一の契約をして師弟関係になるわけです。学年やクラス単位ではありません。
昨年江戸東京博物館で「江戸の学び」という企画がありまして、とっても面白かったのですが、寺子屋のおっしょさん達、有名な先生達がいるんですが、いろんなこと書いている中でほとんどの先生が言っているのが、「子供たちは千差万別である。すごく成長の早い子もいるが晩生の子もいる。机に座って本を読むのが好きで堪らない子供もいれば、30分もすると体中が動き出しちゃってどうにも収拾が着かない子がいる。そういう子供は外に出て、学校の周り3周走っておいでと言えば、走ってきてまた机に座る。だから子供たちは全部別だということが解らないと寺子のおっしょさんは勤まりません」と書いてありました。教育も一人々全て違う。手習いの部分(いろはとか)地名であるとか数字の書き方というのは共通であるが、その先はそれぞれ進む方向によって学問も違ってきます。

城下町の誕生
戦国時代のお侍は必ずしも城下町には集まっていません。自分の持っている領地にお侍とお百姓は出身は全く同じですから自分のところに居るわけです。一国一城になって、あなたは農民になりますか、お侍になりますかと聞かれて、お侍が城下町に集められた。ここで初めて260の地方消費都市が誕生しました。お侍はなにも作らないで年貢を取って生きていくわけですから、そこに向かって、お米・酒・着物などの消費物資が入ってくる。消費だけしかしない人が城下町に1,000人や2,000人住んでどんどん商品が流れ込んできますからここで260の地方消費都市が出来てきます。
今年がだいだい400年目なんです。1607年にあちらこちらでお城が出来て、城下町が出来て、今の町の中核が出来あがった。今年静岡が400年で祭りをしています。彦根・広島・熊本もそうです。今年日本中で400年のお祭りが地方で町興しもありますから丁度行われています。今私達が日本と思っている基礎が出来きました。江戸の中期・後期で100年経った元禄の頃で人口が100万人になりますから、江戸が世界で最大の都市だったのです。北京については統計データがないので詳細は不明です。ロンドン・パリよりは40万50万規模の都市でありました。
教育の普及 家康は本を読むことが平和を維持すると、もう一つそれを支えたのが教育の普及なんです。家康の言葉で「人倫の道明らか成らざるにより自ら世も乱れ、国も治まらずして、騒乱止む無し、この道理を諭し知らんとならば、書籍より他には無し。書籍を刊行し世に伝へんは仁政の第一也」こういうことを言っている。これはまだ関が原の合戦の前ぐらいにときに言っていまして、彼は伏見城にいるときに103,000の木活字を造らせて、貞観政要などの本を活字印刷をし始める。これが関が原の合戦にスタートしました。さらに将軍になって、大御所になって、駿河に行って、今度は銅で数100,000の活字を作って、銅活字印刷を始める。日本で始めて金属活字印刷になります。活字印刷はこれまで日本にはほとんどありません。この2つが出来たのが朝鮮出兵のお蔭でありまして、この最初の伏見版といわれる木活字や駿河版といわれる銅活字を造ったのは、みんな朝鮮から連れてきた技術者達です。朝鮮から来て技術が入って大量の活版印刷が始まるのです。家康が言ったことは、みんなが本を読むことが平和を維持する最大のポイントであります。そこから本はすごい出版ブームになりました。最初は漢文なんです。漢文を読むのは公家・武家・僧侶・医師たちは漢文です。大変面白いと思ったのは1700年の段階で、一番ベストセラーだったのが俳句の本、俳諧がベストセラーでした。松尾芭蕉が丁度の細道をよろよろと歩いていた、片方では近松門左衛門、井原西鶴もいるし、読本がたくさんでてきましたし、俳句の本がものすごく多く発行された。

武家階層の教育理念
 武家は少し違う教育で知識の教育は一切ありません。どういう人間になるのかといった教育だけです。文武両道なので半日は学問で半日は武道です。これが藩校全部同じです。武士は「義で生きる」それ以外は「利で生きる」。会津松平家の童子の訓というものがあり、例えば「子供同士、値の話を一切してはいけない」「物が良い悪いと一切口にしてはいけない」「冗談を言って場所を笑わせるのは一番恥ずべきこと」「人の隠し事を伺い見るというのは最悪だ」こういったことを子供の頃に学ぶ。なので侍は経済政策が良くないのです。侍がどんどん貧乏になっていく。武士はお金を触らない。欲しいものがあると、そのお店の人に財布ごと渡す。お店の人はお金を出してお釣りを入れて戻す。どうしてもお金を受け取る時には、手ぬぐいを手の上に広げて受け取り、手ぬぐいごと袂に入れる。お金には触らない。そういう教育を受けた人が日本人の5%いて政治活動に携わっていて、残りの95%は為替、金銀の取引、市場でお米の値段が上がったり下がったりする、今と余り変わらない誠に洗練された経済活動が在りました。上に乗っかっているのが経済のことがわからない頓珍漢なお金を触っちゃ汚いなんていう人がいる。確かにお金は極めて大事だけども、お金ばっかりではないもう一つの社会のルール、こういうことも大切だと感じます。こういう状況で260年続いていて江戸時代があったわけです。

女性の教育水準の高さ
 さらに皆がびっくりしたのが女性達の社会的地位の高さや女性達の識字率です。なんとなく私たちは、日本の女性は、非常に虐げられてて、西洋の女性達のほうが、ずっと進んでいて、という風な印象を私もずっと思ってきたし、皆様もそう思われていらっしゃると思うのです。しかしこの頃来た西洋人達は、上流階級の5%とは別で、その頃一般のドイツやフランス、イングランド、北欧などのヨーロッパ諸国で一般の女性は一人も字が読めないし書けない。日本に来たら商人の奥様達が店の真ん中で、帳簿は付けるは手紙は書くは、丁稚の小僧達を顎で使って商いをしている。ヨーロッパではそんなこと一切無い。女性は書けないのが当然だった。日本に来たならば、まるで違ったと言って驚いたと書かれています。私も驚きました。また日本中が美しいと書かれている。

リサイクルの江戸
 その当時の商流ですが、売る人は7割で買う人が3割でした。鮮魚から加工品まで売られていました。また当事はありとあらゆるものが買われていきました。古切れも買っていきました。子供たちはいまでいうパッチワークのように、継充てをして着ていました。壊れた傘も買っていきました。かまどの灰、蝋燭の蝋の残り、髪結いの店の残りの髪も買っていきました。永代島が最後生ゴミ捨て場で孫の代には土になり、その者の土地になります。このように見事なサイクルが上手く出来ていました。それを支えていたのが太陽光線と雨と人と馬です。船は風で利用しましたし資材の全ては木材であります。木材は非常に手厚く保護されていました。自然・資源と人間との絶妙なバランスを保った江戸社会でありました。

(質疑応答)
Q:大陸から入った律令制との関係について教えていただけますでしょうか。
A:どこまでを日本国と考えるかによります。律令制が始まったころの日本を中部地方から東は静岡ぐらいまで、西を広島ぐらいまでを日本国と考えますと1世紀ぐらいきっちり法律が行渡っていたということがあります。どこまでを日本とするか、独立国が沢山あった大和朝廷と考えますと、法律がいきわたっていたと言えますが、班田収授法によって国ごとの法律ですので、今の本州から九州までを日本とするのは、江戸時代が始めてです。「公民」はすぐになくなるが、その考え方は残り御百姓と田畑は公のもの、大名は県知事のようなものなので(お国換え)一時的なものという扱いになります。これが西洋と違うところで西洋では、領地・領民は領主の「私有物」だった。価値観が全く違う。
Q:江戸時代の鎖国対策は良かったのでしょうか?また士農工商は良し悪しが分かれるがどうなんでしょうか。
A:私は日本郵船にいましたので、鎖国とは何たることだと思っていました。海外の研究者の方が江戸幕府ベストのタイミングで鎖国をしてぎりぎりのタイミングで鎖国を解いたと言われます。国がばらばらの際に、バックに外国がそれぞれついていたら統治されていた可能性がある。「士農工商」は「士」「農工商」というわけ方ができると思います。1700年以降に「農工商」は楽しい時代だったと思います。だから、まあ江戸びいきと言われるわけです。ありがとうございました。

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